clap3’s blog

哲学的実践の記録。きみの鞄は未だ重いのかい?

人生の荷物 4 ライター

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スリムタイプのジッポーを数年間ずっと使っていました。
先日朝までバーで飲んで、帰ってきたら無くなっていました。

オイルライターが好きなので、新たにロンソンのスタンダードを買いました。
ブラスの反射する昏い光が素敵です。無骨さと優美さが同居している佇まいに惚れます。

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愛しのArk Royalと。

人生の荷物 3 ナイフについて

ある人は、ナイフより鍋の方が重要性が高いという意見を述べています。曰く、ナイフの用をなすものは例えば石や竹などから作り出すことが可能なのに対して、煮炊きに使える容器を自力で拵えるのは難しいと。
それも尤もですが、やはり安定的な使用に耐える刃物は持つべきです。
そんなわけでナイフの話です。

私はなるべくなら自炊したい、より正確に言えば、いつでも自炊可能な状態でありたいと思っています。
何故なら、自力で生きるというテーゼを掲げているからです。本当なら、食材の調達(獲得)も自分の手でしたいところですが、それは流石にこの二十一世紀の文明下にあっては現実味の乏しいチョイスです。
農作物を自力で生産し、タンパク源は釣った魚(畜肉の解体はさすがに辛すぎるので)と大豆に求める、或いは日々の糧を全く托鉢に委ねるというような様式にはかなり惹かれますが、今のところ夢想に終わっています。というか、おそらくうまくいかないでしょう。

貨幣経済の力を借りて食事にありつくとなると、外食、弁当などの調理済み食品、そして自炊と選択肢が発生します。外食や弁当のみで済ませれば調理器具や食器の一切を持ち物から抹消することができますが、私が求めるのはいつでも旅にでることができ、そこで基本的に独力で生きていくことができるというスタイルなので、外部のサービスに依存するというのはこれに真っ向から反します。まあ厳密にみれば、依存の度合いの高低に過ぎないかもしれませんが、受け入れられるのは食材の供給を他者のシステムに頼るところまで、というのが今のところの妥協点です。無論、そういったサービスを全く利用しないということではないです。

……で、調理作業とは、切断と加熱の二つに大別できると考えられます。
植物や動物を火の通りやすい、味の染み込みやすい、口にしやすいサイズにカットし、茹でたり焼いたり煮たり燻したりして摂取するのによい状態にするというわけです。生で食べるものはこの加熱の工程がゼロというふうに捉えることができます。

刃渡りは最低でも8cm欲しいです。私はアメリカ合衆国のCase社のHobo knifeを包丁に使用しています。水牛の骨に彫琢を施し、焼いて握りやすさを高めたグリップに、ナイフ、フォーク、スプーンの三種が収められています。それぞれ分離して使うことができます。平面に置いてもそれぞれ剣先が浮くようになっている点もよいです。
切れ味がよいので、硬い野菜でも肉でもストレスなく切れます。じゃが芋の皮むきなんか、やってて楽しくなる程です。

カトラリーナイフはフランスのBaladeo社のものを一度買ったのですが、満足できずにCase社のものに乗り換えた次第です。

Baladeoも刃渡りは問題なかったのですが、やや切れ味が悪いのと、スプーン、フォークの短さが不便の度を超えていました。
構造上、全長が把長と等しい——つまり、約12cmしかないので、浅型以外のコッヘルに突っ込むと高確率で指が汚れます。ナイフ、缶切り、コルク抜きは折りたたみ式である一方、スプーンとフォークは柄の裏にそのまま固定されているだけなのです。

他に、Victrinoxのマルチツール、Cyber toolとclassic(shipsのグルーミングセットについてきた)も保持しています。衛生的に、口にするものとそれ以外とを切る道具は分離したほうが合理的なので、このような選択になりました。
ただ、組み立て家具や家電なんかを持たないとドライバーが必要になる機会は少ないです。
classicは郵便物の開封や顔周りの体毛の手入れに使います。Cyber toolはギターの弦交換にプライヤー/ワイヤーカッターを。また芯だけのような細いボールペン(意外にもちゃんと書けます。青インク、加圧式)がついています。使用頻度の低い私にはこれだけで十分です。その他のツール(栓抜き、缶切り、コルク抜き、キリ、眼鏡ドライバー等)の存在も心強いです。
本当はノコギリとスケールがあるとさらに嬉しいのですが。

とにかく、三本のナイフを使い分けているということです。今のところ、これが最小値です。最悪どれか一つだけを選ばなくてはならなくなったら、Cyber toolを取ります。最も機能性が高いからです。その場合、フォークやスプーンは何かで代用するか、手近な木をナイフで加工して作り出すしかないな、とか想像を膨らませるのに愉悦を覚えます。

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人生の荷物 2

SEA TO SUMMIT Expander sleeping bag liner

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要するに、快適なのです。
驚くべき伸張性があって、しかも適度に暖かい。トラベルシーツとしても、シュラフのライナーとしても優秀です。
このライナーさえあれば、正直、シュラフや或いはその他布団などは言ってしまえば別に何でも構いません。

臥していないときは折りたたみ(丁度写真のように)、座布団のように使っています。その薄さにも関わらず、板張りの床に直接座るときに不可避の体の痛みを全く取り除いてくれます。これのおかげで椅子やソファといった家具から解放されました。

トラベルシーツではシルクのものが有名ですが、私はなんとなくシルクというのに抵抗を感じるのです。夥しい数の虫の蛹が原料だということに。こればかりは感覚的な問題なので、合理的に考えて自分を納得させようとしても、洗い流せない嫌悪としてこびり付くのです。
その点、このSEA TO SUMMITのライナーはポリエステルか何かで出来ていますので心配ありません。ウォッシャブルでもあります。


そして何より、触り心地が実に滑らかで心地よいです。世界のどこにでも持って行きたい、究極の逸品と感じます。付属の袋に入れれば、掌を広げたくらいの大きさに収まりますし、空気のように軽いです。



人生の荷物


ひとつ、私が維持していきたい哲学にミニマリズムの精神があります。ミニマリズムそのものは、禅でも何でも、突き詰めて実存について考えればどうしても行き着く道だと感じます。

——端的に言うと物を減らしたい。
可能な限り荷物を少なくし、煩わしさからも解放された状態を目指しています。
皮相なことに、そうすると必要になるのは、持つべき物について徹底的に考えることです。
自分の持ち物、試行錯誤について、ぼちぼちと披露していきます。
最終的に、トランクひとつ分ほどに落ち着く予定です。

ひとつ目は、iPhone6。plusではありません。色はシルバー。

この二十一世紀にあって、電子機器をゼロにするのは逆に非合理的です。
iPhoneはタイプライターにもなり(6の4.7インチディスプレイを横にすると、オンスクリーンで実に小気味よくタイプ可能——縦表示でもqwertyしか使わない派。でもAppleのワイヤレスキーボードの導入も検討中)、電子書籍を詰めた小さな書庫でもあり、カメラでありフォトアルバムであり、お気に入りのBowers & Wilkinsのイヤホンを差して音楽を流すこともできるし、夜行バスの価格を調べて予約を取るのだって一瞬でできるし、懐中時計も懐中電灯もキッチンタイマーもアラームクロックも計算機も地図もコンパスも分度器/水平器も兼ねて、筐体は138.1mmと67mmと6.9mmの、ちょっとしたもののサイズを測るのに使えるスケールにもなり、そして勿論その名が示す通り完璧に電話であり、尚且つジャケットの内ポケットにすっと滑り込ませてどこにでも一緒に持ち歩けるのです。

そして我がiPhoneにはブラウンのbookbook caseが被せてあります。これには運転免許証とキャッシュカードとクレジットカードと個人番号通知カード(つまり、私の所有するカード類のほぼ全て)、少々の紙幣が差してあるので財布にもなっていて、ケースが横置きのスタンドとしても機能し(スタンドのようなアクセサリーを別に持つのはナンセンス)、しかも表を閉じれば小さな古書のような佇まいになるのです。

iPhoneひとつを持つことで、削減できるものの数は両手の指で数えても足りません。

カレーの境界線

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今日と明日は休みで、天気が良かったので部屋の掃除をし、夕食はカレーを作ることにしました。

キーマカレーというか、ひき肉を用いて水分を少なくしたやつにしました。
今日はご飯にかけて、翌朝には私が愛する食パンに挟んで東洋的サンドイッチにしようという目論見です。

色々と始めたばかりの私の住まいにはスパイスがなかったので、駅前のSEIYUでカルダモンとオールスパイスコリアンダーとクミンシードとチリパウダーを買いました。帰ってきてから、ターメリックを買い忘れていることに気づきました。買い足しに行くのがあまりにも億劫に感じて、ないならないでいいや、少なくとも5/6のスパイスはあるわけだし、と 高を括りました。食品会社のウェブサイトで、カレーは6種の特定のスパイスを組み合わせて作るのが基本だと言っていたのです。

結果的に、おいしいけれどカレーには見えないし味もやっぱりカレーっぽさの決め手に欠ける感じに仕上がりました。
境界線を越えられなかったこれは、何と呼ぶのが相応しいのでしょう。



はじめに

27歳も残すところあとひと月で、私のもとから去ろうとしている。

日々はこちらの感傷などお構いなしに、ただ一定のペースで歩くことをやめない。
だからこそ、こうして開かれた形で記録を残すのもいいのではないかな、と思えるようになってきた。

歩みの止まる日まで